TTT-ER (Video Part) - 2005 FONOTIAC onzo.jp/artist/fonotiac/
ex-trmnt (Video Part) - 2004 FONOTIAC onzo.jp/artist/fonotiac/
FONOTIAC is an audio-visual performance unit of beat conscious sound and “rapid abstract” moving images, with digital signal processing technology.
Fujino Takatoshi (Audio) A sound artist performs in many places with laptop pc or guitar. Also working with dance company “AURORA” as member of an unit “pico pico stomachs”. - Musashino Art University, Department of Imaging Art and Sciences (Bachelor : 2004)
Kikuchi Haruma (Visual) A sound and moving image artist, performs “live editing” which mixing the sound and visual pieces on the moment. The performance intends to make movies to ongoing process or scape. Avoiding story or purpose, but makes scene which could be construed many ways. - Tokyo National University of Fine Arts and Music, Graduate School of Fine Arts, Inter Media Art Cource (Master : 2006) - Musashino Art University, Department of Imaging Art and Sciences (Bachelor : 2004) homepage3.nifty.com/haruma/

「Automatic Sculpture Machine」は、Computer Technique Group (CTG)が日本IBMの協力を得て制作した1968年の作品「Automatic Painting Machine No.1」へのオマージュです。
「Automatic Painting Machine No.1」は、人の動きを検知するセンサーの働きをきっかけにして、プロッターに装備されたペンキの射出機がキャンバスにペンキを吹きつけることによって、機械が「絵を描く」作品です。私は今回、今日ありふれたアイディアのルーツになる過去の作品を探って、そこに「何か加える」ことをやろうと考えました。古典的と呼べる作品のうち、今日も生きていると思えるアイディアを選んで、そこに何かしらの変更を加えた上で再制作するということです。
「Automatic Painting Machine No.1」では、機械が、機械然とした身体を行使して、絵画を描きます。そこには「ロボティニティ」といったテーマで問題にされているような仕方よりももっと素朴に、機械そのものの振る舞いが、全体として「絵を描く人間」と対置されているように思います。その対置は、人間が身体を行使して絵を描くことを相対化し、再度考えさせるきかっけをつくるでしょう。この問題提起が、1960年代の時代背景のなかで意味を持っていただろうことは十分に想像できます。非生物が、人間の特権ともいえる芸術行為(のようなこと)をしている、という姿は、違和感があり、気味の悪い、一種のスキャンダルとして意図されたものだったのかも知れません。
機械による多くの作品を見慣れた今日の視点からは、機械が絵を描いているということが、それだけで違和感になると指摘するのは、やや飛躍があるように感じられるかも知れません。確かに今日、機械が絵を描いているというだけでは、さほど珍しくはない。少なくともショッキングではないでしょう。二本の足で「歩きまわる機械」でさえ、珍しくありません。
過去の作品を考えるとき、時の経過と共に失われていく感覚に注意する必要があると思います。その作品が成立した時代を洞察するということですが、短いスパンで、自分が過去に驚いたり、気味悪かったり、新しいと思っていたのに、いまではすっかり飽きて当たり前に感じていることを思い起こしてみれば、比較的簡単に時代の差分をイメージすることができるのではないでしょうか。たとえば今日、四足歩行機械のビッグ・ドッグを見たとき、その大型動物のような俊敏さと非生物的な質感の同居に、違和感、気味の悪さを感じないでしょうか。見飽きてしまえば、このくらいの速度で重心を制御する機械のことを、何とも思わなくなるかも知れません。
ビッグ・ドッグのほかに今日の事例を挙げるとすると、たとえばデイビッド・ボウエンの一連の作品「drawing device」シリーズがよい例になるかと思います。「Automatic Painting Machine No.1」と「drawing device」は作品として似たアイディアに属していると思いますが、時代を隔てて、デイビッド・ボウエンの仕事に今日らしい価値があるのは、「身体」の扱いの違いによると思います。デイビッド・ボウエンの作品には、環境から独立して動き回る「個体」らしい機械や、「腕」に類似した機構を持っている機械が登場しますが、これらは「Automatic Painting Machine No.1」が決定的に欠いているものです。ビッグ・ドッグ的な、直接的に生物らしいものと言ってもいいかも知れません。絵を描く機械が、ロボットになるか、ただのプリンタになるかの違いは、この部分にあるのではないでしょうか。
身体はゆらぎを含み、決して観念をそのまま外に反映したりはしません。このゆらぎを機械で作られた身体に見出すことは、現在においても、まだ見慣れているとは言い難いでしょう。人間の完璧な似姿と思えるようなアンドロイドは当分登場しないでしょうから、このことに関連する慣れの問題は、これからも十分に問題であり続けると私は考えます。
この身体性とゆらぎの領域に着目して、「Automatic Painting Machine No.1」をアップデートするとしたらどんな姿になるか、というのが今回私が作品を計画する上での、基礎になっています。言い換えれば、今日的な文脈というものを、論理的な知性の機械化にではなく、身体的な知性の機械化にある、と仮定した上で、絵を描く行為、特にその身体性をテーマにした過去の作品を、少しアレンジして作ってみよう、ということです。
絵を描く行為の身体性、というのは、単なる身体性を意図しているわけではありません。絵を描く知性を、言語的な営みのなかにではなく、手を動かし、画面をつくるという身体(手と目の連動)の中に見いだす、という理解として提示したいのです。
この部分が、主たるテーマを構成し、疑問を生じます。頭の中で描かれたイメージと、実現された物理的な痕跡は同じものとは言い難いが、そのあいだにはどんな関係があるのか、手を動かすことに想起することが先立つのか、その逆なのか、など。手を動かすことの知性の問題として取り上げられる内容は、これらの疑問を生じさせつつ今日の美術と技術の文脈を引き合わせる、おもしろい結節点になり得るのではないかと思うのです。
この洞察を補強してくれそうなアイディアを、私はアンドレ・ルロワ・グーランという人類学者の議論から得ています。
グーランは、古代の遺跡のなかに見られる動物の大腿骨に刻まれた「規則的なキズ」(定規の目盛りのような等間隔の彫り込み)と、現代の太平洋諸島に暮らす住民の祭事に使われる器具との関連を、「身ぶりと言葉」の中で指摘しています。祭事とは、骨に刻まれた精巧な溝をシャーマンが指でなぞりながら、その溝に対応した伝説を歌う、というもので、溝はグラフィカルに物語を表象する機能と、手でなぞって物語に対応する歌を再生する、いわば楽譜の機能を兼ね備えたものであると言っています。グーランは、この観察と遺跡を結びつけ、数を数えたものであるとか、観念を表したものであるなど、諸説ある「規則的なキズ」を、言葉による意味が生じる前のリズムを刻んだものであり、音を表しているとも、図像的な並びを表しているともいえない、と言っています。
グーランは古代の遺跡と当時の文明だけでなく、生物学的な人類の進化にも精通している人物で、いろいろなアイディアを提出していますが、特にこのアイディアは、言語発生以前の人間の営みに関するグーランの仮説のうち、もっとも興味深い部分だと私は感じました。芸術の始原に関する、これほど刺激的な説があるでしょうか。
検証のしようはないかも知れませんが、まず人間の脳に観念が生じ、それを骨に写し取ろうとしたのではなくて、石や骨を砕き、跡を刻む手の動作から、リズムと、それが結果する痕跡を見いだした、と考えるのはとても自然な主張だと感じます。むしろ運動のそのあとで、名指す知性、論理的で、分析的な知性が生じたのだとしたら、私が日頃感じている違和感とぴったり附合するのです。これは私にとって、技術と言語に関する関係の理解を反転させるアイディアでした。
「Automatic Sculpture Machine」を構成するパーツが、これらのアイディアとどのようにつながるのか、どういうシンボルとして置かれているのか、少し説明しようと思います。
機械製のアームによって、動物の骨に打ちつけられる黒曜石は、身体による世界への介入を示唆しています。ここで実物の骨が傷つけられ、カンという音を生じることはとても重要です。手を動かすことによって生じるのは、図像ではなく、痕跡と、音のはずだからです。図像が生じるのは経験を一般化する操作を介してから後のことです。
一方で抽象的で図式的な把握を象徴しているのは、Kinectによって撮影され、3次元の座標上のポイント群に置き換えられたグラフィックスです。物理的な現実が、ある機構を通して、理念上の空間に再配置されている様子を表します。こちらが図像、ということです。
このふたつが、対比的に配置されて、そのあいだの距離を鑑賞者が往復できるというのも、もうひとつ重要な点です。鑑賞者がこのふたつを往復するとき、片方ずつしか見ることができない、あるいは、両方を同時に見ることはかなり難しい、という状態に置かれることが意図されています。この二つの対比が「図式的に」示されてしまうと、インスタレーションとして制作する意味が半減してしまいます。テーマとしては身体の世界への干渉と、抽象的な理解の往復が扱われていますが、作品にする以上は、その往復そのものを、鑑賞者が言葉で理解するのとは違う方法で理解できるように示す必要があります。鑑賞者を、容易にはメタな視点に導きたくないのです。
骨が打たれるのを見て、その音を聞く。一方、振り返ると、それがCGになっている。音は聞こえるが、今度は骨の実物は見えない。これは、誰もが感じたことがあるであろう、自分の内面と身体的な感覚とが一致しない状態の疑似体験です。そのような分離状態にあっても、音は聞こえている(音による認識は同時的に、独立に、直ちに訪れる)という点については、私自身の感覚的な観察によっています。
これらがすべてつながることによって、「Automatic Painting Machine No.1」がかつてそうしたように、人が絵を描くということを、身体性の問題として再提出できるのではないかというアイディアが、作品の基礎になっています。

メディアアートの世界的コンペティション、アルスエレクトロニカ賞インタラクティブアート部門についての説明( http://www.aec.at/prix/en/kategorien/interactive-art/ )に、以下のような箇所があります。
“Of particular interest is the sociopolitical relevance of the interaction as manifested by its innate potential to expand the scope of human action.”
社会-政治的な問題意識をそなえた本質的な言及で、人類の限界に挑戦するインタラクティブ作品を期待しています!といった雰囲気でしょうか。
インタラクティブアート部門は、インタラクション=相互作用を扱っていればフォーマットもテーマも自由、というカテゴリーです。相互作用が、作品としてどにようにして見えるものになるかと言えば、ヒトとモノのあいだのできごと=インターフェイスを通じて、ということになるでしょう。例えば、手元の操作(ヒト)に対してどんな目に見えるアクションが返ってくるか(モノ)や、画面に表示される内容(モノ)と、それによって喚起される体験(ヒト)など。
しかし、操作に対して反応するという「相互作用」の作品の形態として、それのどこが楽しいのかとか、作品としてどの部分に考えさせられる内容を持っているか、ということを考えるためには、結果するもの=現象面を追っていくだけでは限界があるように思います。そこに興味深い「何か」が生じるのは、現象のレベルではなく、現象から思い起こされるもの=認識のレベルにあるのでしょう。このことは作品を楽しむ上でも、作る上でもとても重要なことではないでしょうか。ヒトとモノのあいだにあるインターフェイスの働きは、インタラクションの重要な側面ですが、本質ではないはずです。
例えば、ボタンを押す(ヒト)と、LEDが光る(モノ)、という単純なサーキット=回路を考えてみます。ここで体験できることは、ボタンを押す行為とLEDが発光する現象との対応です。しかしボタンを操作する人の認識は、その体験のなかで完結するのではなく、その背後にある、「構造=回路」にまですぐに到達しているのではないでしょうか。 ボタンを押せば光る、離せば消える、といっただけの単純な回路が、多くの人々を喜ばせることはおそらくないでしょう。このボタンは何だろうと疑問に思ったとしても、触ってみればその意味するところが即座にわかって、飽きてしまう可能性があります。 飽きてしまう、ということは、現象を超えた、一般化された認識がその人に訪れた証拠と考えられるかも知れません。もし、そのボタンがどのような機能を持っているかを示す情報があらかじめ提示されていれば(つまりメタな情報が前もって提示されることで、何が現象するかについての予測が先立っているとしたら)、LEDのオン、オフを切り替えるだけのボタンは、多くの人にとって興味を持つ対象にはならないばかりか、「触ってみる価値がない」ものかも知れません。
このようなタイプの認識の訪れが、相互作用における「作用」と言えるのではないでしょうか。 ヒューマン−マシンの相互作用ではなく、ヒューマン−ヒューマンの相互作用を考えるとすると、このことは当たり前すぎて、言うまでもないことと思えるかも知れません。言葉を交わしている人と人の関係を考えるとき、問題なのは発せられた音声ではなく、受け取られた意味のほうだ、と言っているようなものですから。 しかしアルスエレクトロニカ賞のインタラクティブアート部門が扱っているような作品を、この構図で考えることは、それほど自然なことではないのかも知れません。人と人の会話のモデルを、作品と人の「会話」にそのまま適用できない部分がある。それは、インターフェイスにおいて現象しているものは、それ自体では観念を扱っていないということです。会話モデルで考えようとすれば、現象から即座に観念を結びつけようとしてしまう、というよりも、何か意味しているとすれば観念だろう、という先入観のようなものが作品鑑賞を妨げることがあり得る、ということでしょうか。
インタラクティブ作品と呼ばれるものが、それ自体で示し得るのは回路の構造だけだと考えることで、会話モデルの問題を抜け出すことができるかも知れません。その構造が何か「象徴的なものに似ている」ことはあるかも知れませんが、その類似は、ただ類似しているに過ぎないのであって、観念ではありません。またインタラクティブ作品の中に類似を見いだすのはそれを体験する人の想像力や、連想を可能にする文脈(これは言語の助けを借りて構築されたものかも知れませんが)によっているので、シンボルを使って意味を交換するようには機能しません。その上、インタラクティブ作品の現象面だけをとらえて楽しい、興味深い、と感じたとしても一向に構わないのですから、作者が回路の構造に何か意図を持って制作していたとしても、作品を体験する人が作品の構造について作者と同じように意識すると想定することはできませんし、その必要もないのです。 ただし、意識的に作品に対峙している人が、現象を現象のまま感じて、いかなる構造的な認識にも至らない、ということの難しさを考えると、程度の差はあったとしても、相互作用を体験した人は、構造に対する想像を巡らして何らかの構造的認識を得る、と考えることはできるでしょう。
芸術が構造の提示を扱うのは、インタラクティブアートに限った話ではなく、むしろその他のほとんどの領域でも観察できるでしょう。しかしインタラクティブアートの領域における特殊な事情は、構造のなかでも、継起する出来事の閉じた連鎖=「回路」を扱っていることにあると言えます。インタラクティブアートにおいては、少なくともヒトとヒト、ヒトとモノが互いに影響を及ぼす余地を作品内に作ることが求められますが、この時点で、ひとつの出来事の次に、何か別の出来事が起こるということを含まなくてはならないからです。どんなに単純なものであっても、そこに連鎖を見い出すことこそが、インタラクションが成立する要件のはずです。
回路は必ずしもコンピュータによって構築されるとは限りませんが、インタラクティブアートに活用されるメディウムのうち、いま花形の地位にあるのはソフトウェアや電子回路であることは間違いないでしょう。それは、複雑な構築物を作ることのできる精度と、組み替えに対する柔軟性の点で、出来事の連鎖を扱う媒体として特殊なアドバンテージを持っていることに由来します。出来事の連鎖を用いて何かを模倣したい、連鎖の系を作って何かを提示したいと考えている芸術家にとって、電子の流れを制御する方法は、理にかなっているのです。 芸術家はこの媒体の在り方が、それ以前から慣れ親しんだ媒体とは異なるものを描くことに適していると、気づいているようです。また既に、回路との相互作用は、私たちの生活のどの場面にもありふれています。都市に住む多くの人々は、かなり複雑なシステムを、インターフェイスを通じて日頃から使いこなしています。ゲームとして遊んだりもしています。現代を生きる人々にとって単純な回路が珍しくも何ともなく、陳腐にさえ感じるのは、ひとえに社会的な状況によるのです。プログラミングを可能にするテクノロジーは、システムや回路を作品の中心に据えることを可能にするだけでなく、我々の社会の問題、つまり芸術家が描くべき対象も同時に生み出しているのです。
しかし電子の流れを制御するテクノロジーが、現代的な状況に結びついているという目新しさのためだけに、芸術として取り上げる価値があるとは言えないでしょう。むしろ現象するもの=世界の表面からその構造を洞察する人間の能力に対して、これまでにない方法でアクセスできる、そこに新しい発見の可能性があるということに真価があるのではないでしょうか。芸術家は世界を探索する人間の能力のうちに、手の操作や体の動き、その他身体が介在する「能動的な働き」による、精緻な認識のシステムが存在することを直感しています。このことを提示し、より深く考えるためのチャンスと、問題解決への要請とが同時に訪れているのです。
アルスエレクトロニカ賞は、このような可能性に開かれた取り組みを評価しようとしているようです。新しく獲得された視野のなかで、これまでにない問題やアイディアを考えようということはつまり、新しく「ない」こと、私たちが当然のものとしていることを見直す努力と表裏一体をなしているはずです。ですからインタラクティブアート部門が設定しているテーマを「インタラクションを通じて人間のことを考えてみよう」と言い換えてみても差し支えないように思います。ここまで書いてきた呼び方にならって書けば、「回路を通じて人間のことを考えてみよう」ということになるでしょう。 それは回路芸術とでも呼ぶべき、思考と実践のための領域を想起させます。私はインタラクティブアートのもつ相互性よりも、連鎖する出来事と出来事のあいだに感じられるそれらしさや、それらしくなさに注目したいと思っています。